社会人1年目、「仕事ができない自分」がつらすぎて心が折れそうだった話【地銀時代の回想】
社会人になって最初に配属されたのは、地方銀行の支店だった。
まだ右も左もわからないまま、怒涛の研修を終えて現場に放り込まれた――そんな表現がしっくりくる。
当時の自分は、仕事に対する漠然とした不安よりも、「早く役に立ちたい」「ちゃんと評価されたい」という気持ちの方が強かった。
でも、現実は甘くなかった。
毎朝7時半には出社し、帰るのは夜10時。
自分だけが空回りして、誰の役にも立てていない――
そう感じたあの時期が、社会人としての最初の“挫折”だったと思う。
支店に配属されて見えた“現実”
配属前の10日間の研修では、顧客応対や電話対応、札勘(お札を数える練習)、財務分析などをみっちり詰め込まれた。
今思えば、かなりハードだったと思うけど、まだ“学校の延長”のような気持ちでいられた。
でも、支店に配属された瞬間、空気が一変した。
朝は7時半には出社。営業に出る前には“朝礼”、前日の反省やその日の目標、そして支店長からの訓示が待っていた。
常にピリピリした空気が張り詰めていて、言葉ひとつにも気を使った。
メモを取ってもポイントを外す。
同じミスを繰り返し、上司に怒られる。
「何が分かっていないかすら分からない」という状況が毎日続いた。
気を抜けない人間関係と“お菓子文化”
支店内の人間関係にも、衝撃を受けた。
支店長は“神様”のような存在で、空気を読めないと周囲が凍る。
「上の人に気を遣えないやつは社会人失格」――そんな空気があった。
事務の女性にも相当気を使う必要があった。あいさつの仕方、書類の出し方、話しかけるタイミング……。
自分も、いつの間にか「ちょっとした差し入れ(お菓子)」を持っていくのが習慣になっていた。
それが感謝だったのか、身を守る手段だったのか、今でもよく分からない。
土日も気が休まらなかった
平日は当然ながら、土日も仕事のことが頭から離れなかった。
出勤はしないまでも、自宅で書類を持ち帰って作成・修正することが当たり前になっていた。
当時は情報管理も今ほど厳しくなく、上司の許可を得て資料を持ち帰ることができた。
休みの日にも書類を見返し、フォーマットを直し、月曜にまた怒られる――そんなループが続いていた。
心が折れそうになった瞬間
先輩や上司からは、理不尽としか思えない怒られ方もされた。
普通に仕事ができなさすぎて、「向いてないから辞めろ」と言われたこともある。
さらには、「お前の親の顔が見てみたい」なんて言葉まで浴びせられた。
正直、親のことまで言われるとは夢にも思っていなかった。
このあたりが、精神的に一番キツかった。
それでも救われたのは、たった一言だった
そんな中でも、見てくれている人はいた。
ある女性行員が、ふと声をかけてくれたことがあった。
「大丈夫だよ、ちゃんと頑張ってるの分かってるよ」と。
その一言に、どれだけ救われたか分からない。
「応援してくれる人もいるんだな」と思えたことで、なんとか踏ん張ることができた。
時間とともに、少しずつ変わっていった
地獄のように辛かった日々だったけど、時間とともに少しずつ業務にも慣れ、
3年目には後輩も入り、自分なりに仕事を回せるようになっていた。
正直、良い思い出だったとは言えない。
でも、確実に忘れられない思い出になっている。
そしてあの経験は、自分が管理職になったときの「反面教師」として、今も役に立っている。
あの時、萎縮した、疲弊していた自分が、十分に力を出せていたとは思えない。部下/従業員のパフォーマンスを最大化するために、あの叱責やモチベーションを下げる言葉は使ってはいけないと強く感じている。
最後に
あの頃の自分に、伝えたい言葉があるとすれば――
「大丈夫、あの経験はいつか“糧”になる」
今、同じように苦しんでいる誰かに、この言葉が届けば嬉しい。
苦しい経験は、必ず誰かを救う糧になると信じている。
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