営業ノルマが辛すぎた若手時代|地銀時代の数字とプレッシャーに追われた日々【仕事で辛かったことシリーズ③】

雑記

はじめに

営業職って、本当に大変ですよね。私が最初に配属されたのは支店の営業でした。(一般的なルートだと思います)

私が社会人になって地銀に配属されたとき、「銀行員って生活安定してそう」と思っていたのは、ほんの数か月だけでした。
今回は、若手時代に体験した「営業ノルマ」と「数字のプレッシャー」に追われた日々について書いてみたいと思います。本当に苦しかった。


OJT期間を経て、すぐに独り立ちとノルマ地獄

配属直後はOJT扱いで、支店の中で事務を覚えたりしていました。そのため、目標数字は特になかったんですが、1年も経てばもう営業担当として独り立ち。
気づけば、融資、保険、投資信託など、複数の項目でノルマが課されていました。

月に1回の「支店長詰め会議」では、ひたすら「で、どうするんだ?」のオンパレード。
当時の支店長はまさに“神”のような存在で、その前では全員が緊張。
普段も課長に毎日のように数字の進捗を詰められ、胃がキリキリする毎日でした。
今では考えられないくらい暴言の嵐でした・・・(苦笑)要領の良い先輩はさらっと終える一方、出来の悪い自分は、永遠に続くのではないか、というくらい長い時間でした。


事務も山盛り、営業の時間が取れない

ところで、銀行って、一般人から見ると分からないんですが、とにかく事務が多いんです。

稟議作成、格付け事務、資料作成、顧客応対……
営業活動だけしていればいいわけではなく、むしろ若手の頃は事務ミスも多く、1つミスが起きると、解決するのに何時間もかかってしまうこともありました。

気づけば、今日も一日、営業らしいこと何もできてない。
焦って顧客先に向かうときは自転車か車。でも、時間がなくて、昼ご飯も食べられないまま営業に出るのが当たり前に。顧客先にもっていかなければならない書類を忘れて、引き返して、遅刻しそうになって汗だく、みたいなこともよくありました。自業自得なんですが・・・

結果、私は営業出てからの1年間で10キロ以上痩せていました。
たぶん、人生で一番“削れていた”時期です。


毎日の「日報」も精神をすり減らした

地銀時代、営業には「日報」という存在がありました。

その日に誰に電話して、どこに訪問したか、何件電話して、どういう話をしたかを書く必要がありました。もちろん、数字を達成するには、行動量を示さなければならず……

また、一挙手一投足を監視されているようで、正直、苦しかったです。

本当は電話できなかった日も、「電話したことにした」こともあります。
いけないことだとわかりつつも、精神的に追い詰められていました。
本当に危ない橋を渡っていましたね・・・。


それでも、やめなかった理由

今振り返ると「よく続けてたな」と思いますが、やめなかった理由は単純でした。

負けたくなかった。

数字で詰められ続け、何度も悔しい思いをしました。
それでも、「辞めたら悔しい」っていう、妙なプライドがありました。

それに、応援してくれる人もいました。
同僚や先輩の中には、そっと励ましてくれる人もいたし、お客様の中にも「〇〇さんが来てくれたなら、やってあげるよ」と取引してくれる方も。

ああいう言葉が、どれだけ救いだったか……。


今思うこと

営業のノルマって、ただ「数字」じゃなくて、人間関係とか自尊心とか、いろんなものを削ってきます。

でも、一方で数字に強くなったり、どんな詰めにも動じない“鈍感力”が身についたのも事実。
今、自分が管理職の立場になって思うのは、詰めるよりも支える側でいたいということです。「どうするんだ?」って何のプラスにもならない言葉です。もっとロジカルに、目標を達成するには、これとこれが手段としてあって、でもこれだけでは足りないので、別の手段を考えよう、みたいな指示・指導をしてくれていたらもっとポジティブに働けたと思います。

毎月の数字に苦しんでいる若手社員を見るたびに、昔の自分を思い出します。
あのとき「お前のせいで店が未達になる」って言われた言葉、今でも鮮明に覚えています。


おわりに

営業職って、本当に消耗します。
でも、あの経験があったからこそ、今の自分があります。

もし今、数字に追われて苦しんでいる若い人がいたら、
「あなたのせいじゃないし、頑張ってるのはちゃんと見てる人がいるよ」と伝えたいです。

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